東京地方裁判所 平成4年(ヨ)2314号 決定 1992年12月07日
債権者
荒井美奈
右代理人弁護士
道本幸伸
債務者
サンキ・システムプロダクト株式会社
右代表者代表取締役
中田善章
右代理人弁護士
永友巧
主文
一 債務者は債権者に対し、三〇万円及び平成四年一二月から平成五年六月まで毎月末日限り三〇万円を仮に支払え。
二 債権者のその余の申立てを却下する。
三 申請費用は債務者の負担とする。
理由
第一申立ての趣旨
一 債権者が債務者に対し雇用契約上の地位にあることを仮に定める。
二 債務者は、債権者に対し、平成四年八月一日から本案判決確定に至るまで毎月末日限り一ケ月一一六万六六六六円を仮に支払え。
第二事案の概要
一 債権者の主張
1 債権者は、平成四年四月から、株式会社I&M出版に年収一四〇〇万円で勤務し、同社発行の求人誌「ギブ&ギブ」の編集長をしていた。
2 債権者は、同年五月二二日、債務者代表取締役中田(以下「中田」という。)から、債務者が開設を進めているスポーツクラブ「ザ・ゼットクラブ」の広報部門の責任者として迎えたいとの要請を受け、同年六月一日、債務者との間で、年収一四〇〇万円で、広報室室長、機関誌編集長として雇用契約を締結し、勤務は同年七月からと約束した。
3 債権者は、同年七月一日から債務者で業務についていたが、同月三一日になって、突然なんらの合理的な理由なく債務者から解雇の通告を受け、一ケ月分の給与として一二〇万円が支払われた。
4 債権者は、両親と三人暮しであるが、まとまった預貯金等がないため、賃金だけで家計を支えている。その生活費は、月八〇万円くらいになる。
よって、申立の趣旨のとおりの仮処分を求める。
二 債務者の主張
1 中田は、平成四年五月、債権者から株式会社I&M出版入社の挨拶状を受け、開設中のクラブの出版業務等のアドバイスを受けたいと考え、何回か面会しているうちに、本年一杯債権者が株式会社I&M出版の後始末をした後、債務者に迎えたいと話したところ、その数日後には株式会社I&M出版を退職したと連絡してきたので、勤務条件も定めないままで同年七月一日から債務者で勤務することになった。
2 しかし、債務者では受け入れの準備ができていなかったので、債務者の関連会社の平成ビル企画株式会社に身分を置き、債務者に出向させることとし、給料は当分の間他の従業員に準じ年俸七〇〇万円位にしたいとの条件を出し、債権者もこれを認めた。
3 ところで、債務者は債権者に対し、あらかじめ再三経歴書の提出を求めていたが、債権者は応じないでいたところ、同月二八日になって、債権者が名刺に記載していた「取締役編集長」の肩書きが偽りであり、同年六月下旬には重大な支障のある病状にあって株式会社I&M出版に休職願いを出していたことを秘していたことが判明した。
4 以上のとおりであるから、債権者と雇用契約を結んだのは債務者ではなく、仮に債務者との契約であったとしても、債権者の経歴詐称(前職の地位、年俸の内容、健康の状況)による錯誤・詐欺の意思表示によるものであるから、無効であり、取消しの意思表示をした。仮にこれらが理由がないとしても、二ケ月の試用期間があるから、一ケ月分相当の予告手当も支給して解雇した。
三 判断
1 債権者と債務者との間の雇用契約の成否について判断する。
(一) 本件疎明資料及び審尋の結果によれば、次の事実が認められる。
(1) 債権者は、株式会社日本経済同友会で約五年間新聞の企画・編集の仕事に従事した後、平成四年四月一日、株式会社アイ・アンド・エム社に入社し、設立予定中の株式会社I&M出版の編集長という肩書きで年俸一四〇〇万円(月額一二〇万円・月末払いであるが、確定給か営業実績給かは明らかでない。)で勤務していたが、年俸に見合う実績を上げていたわけではなかった。
(2) 債務者の代表取締役中田は、債権者が日本経済同友会に勤務中に債権者の取材を受けたことから面識があったところ、平成四年五月、債権者からI&M出版に入社した旨の挨拶状を貰った。当時、債務者は健康の維持管理を目的としたゼットクラブの開設を企画中で、出版業務等の仕事の処理を債権者に頼んだ。中田は、ゼットクラブの内容等を説明するために二、三度債権者と会った後、給料はI&M出版と同じとすることとして、とりあえず六月二七日開催のゼットクラブのオープンセレモニーに債権者を出席させた。そして、債権者は、七月一日、債務者から事業本部企画部編集長及び室長を命ずる旨の辞令を受け、債務者会社で勤務するようになり、株式会社アイ・アンド・エム社には退職届を出した。
(3) ところが、中田は、入社後の債権者が指示された仕事を満足にできていないと判断し、その後の七月二八日には債権者が入社前に名刺に株式会社I&M出版「取締役」という肩書きを付けていたのが偽りであったことが判明したとして、同月三一日、平成ビル計画株式会社の名義をもって、入社を白紙に戻すとして、七月分報酬一〇万円及びゼットクラブ外注企画費一一〇万円の名目で一ケ月分を清算して支払った。
(二) 以上によれば、債権者は、平成四年七月一日、債務者との間で、企画部編集長兼室長として勤務する雇用契約が成立したものということができる。ただし、賃金については、年俸給が確定給か営業実績によるものかは、本件疏明資料の限度では明らかではない。
2 債務者は、債権者が経歴を詐称したとして諸事由をもって詐欺・錯誤を主張するが、欺罔行為・錯誤の具体的内容及び両者の因果関係についての主張が十分でなく、これらを解雇事由とする主張としても、(証拠略)の記載のみをもってはいまだ疏明があるとはいえない。なお、試用期間中の解雇をいう主張についても、その疏明があるとはいえない。
3 そこで、保全の必要性について判断する。
(一) 本件疎明資料及び審尋の結果によれば、債権者は、独身であるが、職を持たない両親と同居していて、債務者からの賃金の他に収入がなく、めぼしい資産もないため、債務者からの賃金を得られないことにより生計の維持が困難になっていることが認められる。
(二) 債権者は、月額一二〇万円の賃金の仮払いを求めるが、仮払いをすべき金額は、仮払いの性質上、当然に賃金の全額に及ぶというものではなく、生計を維持するのに必要な金額に限られるというべきである。債権者は、生活費として、毎月八六万六三八三円(食費二八万円、家賃七万三〇〇〇円、電気・ガス・水道代四万三二五〇円、医療費一万六八六三円、小遣い一一万円、被服費一三万円、交通・交際費七万円、借受金返済四万円、自動車修理・車検・税金三万七二七〇円ほか)を必要としていると主張するが、債権者の居住する神奈川県の勤労世帯消費支出が月約三八万円であることは当裁判所に顕著であるところ、本件疎明資料及び審尋の結果により認められる債権者の生活状況等を斟酌すると、債権者の差し迫った生活の危険・不安を除くために必要な仮払金は、月三〇万円と認めるのが相当である。
(三) つぎに、仮払期間についてみると、審尋終了時までに支払うべき過去の賃金部分については仮払の必要性がないと認められ、また、債権者が雑誌の編集という特別な能力を持っていて転職の容易な職種の労働者であることからすれば、本案事件審理中の将来の事情変更の可能性を考慮する必要があり、したがって仮払期間は、現時点では、審尋を終了した平成四年一一月から平成五年六月までの間と認めるのが相当である。
(四) なお、債権者の求める地位保全仮処分は、その履行の観点からみれば債務者の任意の履行を求めるに過ぎないことになるうえ、賃金収入を得られなくなったことによる現在の危険の除去を目的としているものといえるから、賃金仮払仮処分のほかにその保全の必要性を認めることはできない。
4 以上のとおりであるから、本件申立ては、平成四年一一月分の賃金として同月末日限り三〇万円の限度で(履行期到来済)、平成四年一二月から平成五年六月までの賃金として毎月末日限り月額三〇万円の限度で仮払いを求める限度で理由があり、その他は理由がない。よって、主文のとおり決定する。
(裁判官 遠藤賢治)